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花はどこに咲いているか

恒例(笑)の倫理レポート公開。まぁ折角書きましたので…稚拙ながら読書の参考にでも…。
今回は西元和夫著「花はどこに咲いているか-Jポップで哲学する」です。私にはちょっと難しかった…。けれども納得させられた一冊。
原稿用紙3枚と半分程度になります。



「あるがままの世界に咲いている」

           
 今まで「唯名論」や「唯物論」はどう考えても答えが見つかるものではないと思っていた。ニワトリが先か卵が先かわからないのと同じようで、どちらも支持する人がいるのだという事実をただ漠然と受け止めていた。
 しかしこれを読んで気付いたのは、今何気なく過ごしている社会が極めて唯名論の中にあり、人間中心であるかという事だった。思えば日本語には「擬人化」という表現がある。物が、人のみがし得ると思っていることを表現するときに付いている名前も、人になぞらえている、といっているのだからいかに人間目線であるかが窺えると思った。そしてその表現に名前を付けたのは、いうまでもなく人間である。
 筆者の挙げたハルジオン解釈から考えてみる。歌詞では名前と存在の両方を忘れているかのようであるが、名前は思い出せないけれど、「白くて背の高い花」であるという視覚的な印象は彼の中に強く残っているのである。その花が無いのでも有るのでもない中間領域を突き詰めれば、偏りを見せる今の社会を分類して考える事ができるのだろう。
 この中間領域に線を引いて、二分割することはできない。朝と夜、生と死も境を作るとすればそれは人間の作った定義だ。人間の作った物だから、人間に見えていない部分は知らない間に排除している。それが夜であり、死の部分だ。名前と存在も、切っても切れない関係のようでありながら、名前を付けてしまったが為に、二分割が出来なくなったといえるのではないか。見ることの限界、つまり、その両方を見えていないことに気付けば、見えない物を見ようと出来る。無知の知が、何よりも大きく人を動かし始めるのだろう。
 話すことに気を取られると、聞くことが出来なくなる。聞くことがなければ、気付くこともない。見えてないという真実に気付かないままでは、二面を総括する「あるがままの世界」は到底見えてこないというわけだ。
 私たち演劇部は、今は文化祭に向けての準備を進めている。ひとつの舞台を作るまでの、ひとつひとつのシーンを高二全員でお互いに見せあい、意見を言いあう。その時に友人から言われることは、自分に思いついてもいなかった演技であるとか、言われて初めてわかる自分の癖だ。人に言われてそれに従うのでは「自分の役を作ることにならない」と感じてしまったこともある。しかしそれは違うのだろう。言われて、わかる。受動的なだけではなく、そこで気づき、自分で考えるのだ。自分で考える能動的な部分と、他人の意見を聞かないエゴイズムな部分は全くの別物をうむのだろう。というよりも、エゴからは何もうまれてこない。またそれに気付き、全員が動き始めたら、きっと良い舞台が作っていけると信じている。
 私がこのことを考え直し、気持ちを改められたのも、この文章を「読む」という受け身の行為を経たからだ。日本人が「みんな」を判断の基準にしてしまうのは、曖昧を好む国民性が、自分で考えるところまで辿り着かせにくくしているのだと思う。しかし、個々人がいつのまにか唯名論の、人間中心の世の中に閉じこめられていることに気付くことで、責任を伴った自己の判断をしていけるような人になっていけたら、もっと視野の広い生活を送れるようになるのだと思う。私自身も一歩身を引いて、多くのことを吸収しながら、常に成長していきたい。



花はどこに咲いているか―Jポップで哲学する 花はどこに咲いているか―Jポップで哲学する
西元 和夫 (2004/06)
文芸社

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